記者時代の師匠田川憲生さん逝く
2022年04月02日
熊本日日新聞社の記者時代に徹底して取材方法や記事の書き方、人間関係の広げ方などを叩き込まれた人生の師でもある田川憲生さん(74歳)が1日亡くなられました。記者の後、ホテルの社長、商工会議所会頭なども務められ熊本県内で幅広く活躍された大人物でした。金曜日(4月1日)予定を早めて熊本に帰りご自宅にお邪魔をしましたが、生前と変わらぬお顔で眠っておられました。哀悼の誠を捧げるとともに師匠の分まで、しっかりと仕事をしていかなくてはならないと改めて誓いました。
田川さんとの出会いは昭和57年(1982年)、天草の牛深支局から本社政経部に転勤した時から始まります。その時のキャップが田川さんです。私が支局時代に事件、事故、漁業や海にまつわる連載など様々な記事を書き、「量」で勝負していましたので田川さんの目にとまり、名指しで私を引っ張られた、という事でした。
当時の熊本県政は、沢田一精知事(故人)が4期目を目指されていましたが、新進気鋭の参議院議員だった細川護熙氏が県知事選への挑戦を決意し、両者が激しく自民党公認争いを演じている時でした。県議団は現職の沢田知事が多数派を占めていましたが、細川派の切り崩しも激しく、様々な駆け引きが昼夜を問わず展開されていました。
田川さんが、「自民党の公認が決まるまで徹底して政治家の動きや経済界の動きを取材して、政治がどのように動いていくか表面だけでなく裏舞台の取材をして、同時進行型で連載を始めよう」と企画を出され、取材と連載が始まりました。タイトルは「知事選、裏と表と」です。
すべての自民党国会議員や県議の自宅、行きつけの店、車のナンバーを調べ、4人の記者で担当議員を決めて、夜、朝、昼と連日徹底的に取材をかけました。同時進行の連載ですので、夜ぎりぎりまで取材して締め切りに間に合うように原稿を書きなぐりました。休日はもちろんありません。飲食店で議員をはじめ関係者の話を聴き、私たちの行きつけの店に記者が集まって議員の皆さんの動きのつじつまを確認します。帰宅するのは午前3時ころ、朝は議員の自宅を朝食時に襲うというまさに「夜討ち朝駆け」でした。
その日の夜の議員たちの秘密行動が翌朝の新聞で暴露される訳ですので、その影響力はすさまじいものでした。しかも熊日のシェアは70パーセントをはるかに超えていましたので、政治の動きは朝の熊日の連載「知事選、裏と表と」から始まるといっても過言ではありませんでした。
新聞を中心に政治が動いていく醍醐味を知りました。一方で新聞に連載されることを見越しての様々な動きや政治的アピールも出てくるようになりました。新聞が書き、政治が動き、政治が仕掛けて、新聞が後を追う、それによって世論が動く、このようなサイクルが2か月以上続きました。
最終的には細川さんが自民党公認を得て知事に当選。沢田さんは参議院議員へと回られました。連載は70回近く続いたと思います。
その時、政治の動きの面白さを知り、議員の皆さんとの人間関係づくり、さらに信頼を得ることの大切さを教えられました。政治へのスタートはそこから生まれたように思います。
それほど昼夜を共にし、徹底した取材の中で意見のやり取りをしたことは私にとって何よりの財産です。地元からの要請もあり県議会議員選挙に出ようとしたとき、田川さんから「ミイラ取りがミイラになってはいけない」と懇々と諭され、2日間延べ20時間にわたって記者を続けるよう説得されました。最後は涙ながらに地元の意を受けた私の決意を述べたことを昨日のことのように覚えています。「20時間の説得」を後年、衆議院議員になり総務副大臣の時、日本経済新聞の連載「交遊抄」というコラムに書いたところ、熊日系列のホテル社長に就任されていた田川さんは当時を振り返りながら大変懐かしがられ喜んでいただきました。せめてものご恩返しでした。
私にとって戦場で共に戦った上官であり、人生の師匠でもあります。叩き込まれた数々のことを忘れることなく師匠なき日々をしっかりと歩いていきます。 合掌。