「記憶の限りでは、ない」の答弁

2018年04月12日

昨日の予算委員会だけでなく、ここ数回の委員会で総理や役所の答弁で「記憶の限りではそのような事実はありません」という言葉が目立ってきました。なかなか考えられた「永田町、霞が関言語」です。特に官僚が仕事をする霞が関には「霞が関文学」という表現がある通り、一般の人にはなかなか分かりづらい、役所による言葉や独特の言い回しがあります。

「記憶の限り・・・」は、「記憶以外に事実が存在していた」としてもそれは虚偽答弁ではありません。その人の記憶からは抜けているわけで、正直に「記憶の限り」と答えており間違いではない。仮に、記憶を故意に自ら消していたとしても、それを証明できる人は本人しかいないので、それを「故意」として問い詰めることは不可能です。事実の立証がいくつか出てきた場合には「もしそのような事実があったとしたら、私が失念していた、としか言いようがありません」と答えれば済むわけです。なんと考えられた表現だろうと、舌を巻きます。

過去にもこの表現はかなり出てきました。国会で様々な「事件」として取り上げられたとき、証人喚問や重要答弁の中で何度か聞いたことがあります。

最終的にはこれらの「事件」はほとんど答弁者が記憶を否定され、論破され、それ相応の結末になっています。つじつま合わせに終始した結果です。

さて今回、なかなか難しい局面です。総理や官僚の答弁はやはり無理をしているとしか言いようがない。しかし「事件」としては、「悪質」のものではなく全て「善意」の気持ちから出てきたものです。少なくとも加計学園は地域のためになっているし、学生も多数入学してきて、獣医師界にも一石を投じています。

もっと胸襟を開いて、堂々と、オープンに答弁していいとも思います。政治家があまりにも役人の助言で「霞が関答弁」なりすぎると、結果として政治的には、良くない方向へ行きがちです。