政治家・加藤紘一先生を悼む

2016年09月15日

 今日は去る9月10日に亡くなられた加藤紘一先生の葬儀が正午から青山斎場で執り行われますので参列します。
 国会議員選挙に出馬する時、最初に相談したのが園田博之先生でした。その園田先生が私を連れて行かれたのが加藤紘一先生が宿泊しておられる東京都内のホテルの一室でした。そこには山崎拓先生もいらっしゃいました。一通りの挨拶をして辞去しましたが、多分その後山崎、加藤両先生でどちらが面倒見るかを話し合われたのだと思います。何せ自民党の現職国会議員に立ち向かう私でしたので、自民党最高幹部の二人としては厄介な者を紹介された、と思われたことでしょう。結局山崎先生預かりになりましたが、そのくだりは、最近山崎先生が出版された「YKK秘録」に記述されています。
 当選すると加藤先生は本当に可愛がってくださいました。「農業を大切にしろ」「田舎を重視しろ」が口癖でした。このため田舎出身の国会議員で地元のうまいものを持ち寄って食する「旬のものを食べる会」をやろうといわれ私が事務局長として参加者を募りました。今でも「日本の食を楽しみ支える会」として続いています。
 地方に行って車座になってマイクを使わない座談会をやろう、とも言われ数人で農家や商店街で少人数の話し合いを複数の国会議員でしました。今では「ふるさと対話集会」として自民党の看板行事となっています。
 食通で、田舎者の私が知らないいろんな美味い店に連れて行ってくださいました。燻製だけの店、山形の郷土料理の店、ウナギの蒲焼で最も美味い店など今でも通っています。
 ショックだったのは「俺の地元では、熊本の加藤清正の嫡男忠広公をみんなでお祀りして、お寺で集まりもやっている。お墓も掃除している。なのに熊本からは誰も来ない。冷たいじゃないか」と言われました。
 加藤清正の嫡男忠広は、1611年清正の死去と同時にわずか11歳で肥後の藩主になり、21年間熊本を治めますが、1632年参勤交代の折に品川で、3代将軍家光から江戸城への登城を差し止められ、そのまま庄内藩、今の山形県鶴岡市に移され54万石から1万石に改易され、52年の生涯をその地で終えます。
 肥後の内政に問題あり、と伝えられていますが、私は徳川家の旧豊臣家臣に対する最後の制裁だと思っています。福島正則など秀吉7本槍と言われた子飼いの武将はその多くが改易や転封されているのですから、これは家康の「秀吉直参はいずれ改易などで処分」という遺言があったのだと思っています。
 話は反れましたが、そういう事で山形鶴岡市の加藤忠広をお祭りするお寺にも加藤先生と行き、忠広顕彰会の皆様と話しをさせていただきました。ちなみに加藤紘一先生もそうですが、鶴岡では加藤姓は多く、特に造り酒屋に加藤酒造など加藤姓が目立ちます。やはり忠広の末裔でしょうか。
 そんなこんなで思い出が一杯です。頭脳明晰でこんなに頭が良くてしかも教養人がよくこの政治の世界にいたものだ、と思いました。だから総理になれなかったのかもしれません。
 今日は盟友の山崎拓先生が弔辞を読むということですが、いわゆる「加藤の乱」の時の秘話を披露し、決して「乱」ではなかったとの見解を述べるそうですが、どの様な弔辞になるか興味津々です。
 見識を持った政治家が一人いなくなりました。その100分の1でも身に付けて政治活動していきたい、と思っています。